ジジョロン

「そろそろ本気だす」といい始めてからが本番だ

海猫沢めろん「頑張って生きるのが嫌な人のための本」を読んだ

テーマが「自由に生きる」で、きっかけが著書の年下の知り合いの自殺でそのご両親にこのことについて書いて欲しいと頼まれて書いた、という前フリがから始まる本書は、海猫沢めろんがどうすれば年下の少年は死なずに済んだのか?について自問自答していく告白本です。

人の死について語っているので、著者もそれ相応に自分の内部を晒しながら、冷静にぽつぽつと言葉を慎重に選びつつ、大人のようなわかったような振りもせず、真摯に書いたのだろうなと思いました。

各章で出て来る引用の守備範囲から、著者の博学さが伺えます。自身が実際に新興宗教で教祖と対峙して、洗脳合戦での出来事を振り返ってみたり、様々な職業を渡り歩いてたどり着いたことが今の文筆業に結実している姿とか、本書の「生き方」や「自由」に対するゆる〜い接し方指南も興味深くありますが、それ以上に私は著者自身の生き様の語り口に惹かれました。

なんだかよくわかんないけど、やりたくないことはやりたくない、やりたいことだけでストレスなく生きていく、生きていかざるをえない、不器用な人がもがいた姿が脳裏に浮かびます。

そして私のそういえばそんな生き方をしたかったはずだったのでした。今は普通に家族をもってますけれど。

読書の面白さの要素の1つに、他人の人生を追体験出来る、ってことがありますが本書にその面白味を感じました。

実在感の話

本書の最後に出てくる実在感の話が面白かったので紹介します。

人が他人のについて、実在しているんだなあ、と感じるのは実際に本人がいることは勿論ですが、目の前にその人がいない場合でも、自分の記憶の中にいるその人がいるから感じることが出来る。

で、実際にその人にあると記憶のほうもアップデートされていく。

だけど死んでしまうと記憶のアップデートがされなくなってしまう。

アップデートの頻度がなくなるとやがて忘れてしまい、「本当」に「死んだ」ことになる、のではないか、という指摘です。

逆に言えば記憶のアップデートが行われれば、その人の思い出は残るわけです。だから四十九日があるのではないか。亡くなった本人は、記憶のアップデート情報の供給元ですが、本人がいなくなっても、その情報の破片を持った人々が集まって情報を交換することで、記憶のアップデートがされる瞬間がある。

そうすることで実在感が残り続ける。

亡くなった人のことを話続けるのはそういう意味があるのではないか。

葬儀というのはそういう機能だし、記憶のアップデートの混乱がたとえば幽霊だったりするのでは?とかね。

本書は薄くてさくっと読めますけれど、引用の文言を調べてみたり参考文献を当たったりする気にさせてくれる魅力的な本でした。

本の内容より、私は著者の苦悩やもがき苦しむ姿が印象に残りましたね。

参考文献に挙げられていた、人前に出るときの緊張感をコントロールするための指南書「オーディエンス・マネジメント」は読む予定です。

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