幸田露伴「努力論」の書評にまともなのないので私が書く
幸田露伴の「努力論」の書評は概して、序論である努力の種類である「直接の努力」「間接の努力」の話か、次の章で出てくる3福の話ばかりが取り上げられていることが多い。というかそれしか出てこない。
お前らマジ読んでねえだろ。
読んでねー癖に書評書いてるだろ。
触りの部分読んだだけでわかった気になるのもわからんでもないけれども、それだけだと勿体ないし、そもそも話、本を読む努力さえ出来てねえじゃねえか、と言わざるを得ない。
というわけで私が書評を書きます。驚きの結末もあるよ。
そうはいうものの私も読んでいるのは原本ではなく渡辺昇一編述した物なんですけれどね。
運が味方につく人つかない人―幸田露伴『努力論』を読む (知的生きかた文庫)
- 作者: 幸田露伴,渡部昇一
- 出版社/メーカー: 三笠書房
- 発売日: 2001/09
- メディア: 文庫
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世には超訳なる努力論もあるようですが、渡辺昇一が書くように、原本は漢文テイストの入った文章で、漢字の字面の迫力、繰り返す言葉のリズムまではおそらく訳されていないのではないかな。わからんけど。渡辺本ではその辺考慮してあってある程度露伴っぽい文章を読むことが出来ます。
本書の肝
さて、努力論ですが、本書の肝はなにか。
本書は「努力」を様々な視点から考察していること、それを露伴と一緒に考えること、考えて体感することじゃないかと思う。
というのも途中々々で同じことを何度も繰り返し言葉を換えて訴えかけてきます。
努力の話
例えば「努力」については、よく出てくる「直接の努力」「間接の努力」の話。
「直接の努力」は差し当たっての努力。「間接の努力」は準備の努力。物事の基礎、源泉となるような努力のこと。将棋でいえば、直接の努力とは対局中に賢明に指し手を考えて全力を尽くす姿勢。間接の努力とは対局前に普段から詰将棋で終盤力を鍛え、研究会で流行している戦型を把握し、自宅では独自に戦法を研究会したり、あるいは対局中に集中力が途切れないよう精神統一の禅に取り組むとか身体を鍛えるとか。
努力したけど失敗するのは、
- 方向が間違っている
- 間接の努力が足りない
の2パターンあって、大抵は 2. が原因なんだそうな。…せやな。それいわれたらグーの音も出ないわw
運命の話
努力に関連して運命についての話もあります。
運命前提論(決定論)があるかどうかはわからんけれど、人間なら運命に支配されるより支配したい、というのが偽らざる欲望であって、そう考えて何が悪い、といわんばかり。
そこから、例えば水害のあった村の話が出てくる。
河を挟んで片側だけが洪水になり、田畑に被害が出た。このとき被害があった場合、なかった場合どちらにしても次に同じような水害に合わないように、事前に対策しておけるかどうか運命を変えていくわけで、積極的に変えていこうすれば変わるよな?という示唆ね。
そもそも努力って?
努力することは、もともと人間が持つ性の本然であって、生活の充実、自己の発展、生の意義であり、やることは当然なのであります。
しかし、努力するために努力するのは、自然に逆らいねじ伏せようとしていて、不純であり、自然な努力であって欲しいともいう。だってそれが本然なのだもの。
自然に努力するためには?
集中力がものをいうわけ。だけどそれには「気」について理解しなくてはならない。ベストは「気が張った」状態でことにあたること。
その状態にするためのノウハウと考察、逆に「気が散る」「気が凝る」といったマイナスな状態についての分析があり、治す方法も合わせて書いてあります。また、「気」というのは四季にも大きく影響を受けるとし、季節毎の身体と心の使い方の指南までしてくれてます。
集中力を保持するために
健康にも当然気をつける必要がり、病気に対する考え方、とくに社会的な観点からの指摘などは100年前の本だけどまったく色褪せていないです。つまりだ、病気に対するにも個人だけ頑張るんじゃなくて社会的な対応も必要だよっていう。インフルエンザ予防接種とか多くの人が受けてこそ、ってことですよ。
個人で気をつけるのは「不注意」と「知識不足」だそうだ。
すべての病気というものは、《不覚》のうちに生じて、《自覚》で成り立つものである。
耳が痛い...。
努力の方向
努力する方向例として、4つ挙げてある。
- 正 … 横道にそれたり偏ったりしない
- 大 … 自らを大きくする心意気を持つ。小さくまとまらない
- 精 … 何事も丁寧に
- 深 … 得意分野を見つけたら徹底する
大まかな説明だけど大抵こんな感じ。
まとめ
その他、今回は紹介していない3福の話や勇気の話なんかも為になりますよ。
本書を読めば、努力するにも色んな切り口を学ぶことが出来る。 だから序論だけ読んでわかったような気分にならずとうして、最低10回は読み返して欲しいですし、読む価値は大いにあります。
でね、序論の最後に物凄く気なる一文があるんですよ。
「努力して努力する」――これは真によいものとはいえない。「努力を忘れて努力する」――これこそが真によいものである。しかしその境地にいたるまでは「愛しむか捨てるか」という決断を身につけなければならない。そうしなければ無限を三倍したほどの長い時間も努力しなければならないだろう。本書では「愛の道」「捨の道」を説いていない。それで努力論としたわけである。
…おわかりだろうか。
マスターしてないと、無限の3倍の時間も努力しないといけないのに、その「愛しむか捨てるか」というテクニックは本書にない! なにそれ!!!!!!
っていうね。
愛しむ=恋愛とかで無我夢中になるあの様子なのかな? 捨てるというのは、気が散らないように気になるものすべてを捨てる覚悟を持て、ということなのか。その当たりは読み手が独自で辿り着けよ、ってことなのかもしれない。
それとも露伴の作品どこかにヒントなりズバリそのものだったりするものがあるのだろうか。めっちゃそれが気になってます。 ご存知の方いらしたら教えてください。